東金の風景 Photo探索 東金の文化、郷土史などを紹介します。 |
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八鶴湖 <東金城址 <日吉神社祭礼<表谷鞨子舞<雄蛇ヶ池<徳川家康公ブロンズ像<田間神社大祭<高砂浦五郎<東金・長唄考 <東金と豪商・東金茂右衛門<木遣歌(きやりうた)<お鷹狩りの謎解き<東金蜜柑柑子<『驟雨』の舞台と東金<『驟雨』の舞台と東金(二)<消防団 出初式<大木茂八 <法光寺と閻魔王座像 |
相互リンク 東金のオールディーズを知りましょう.文化の源に出会えるかもしれません |
由来:文禄三年(1594)に本漸寺と最福寺の朱印地である水田90余町(約89万平方メートル)のかんがいと、東金市街の防火用水のために造られた人造湖で、当初は「谷(やつ)の池」とよばれる小池にすぎなかった。江戸時代に入り、東金一帯は、将軍の鷹場となり、動物の狩猟や捕獲が禁止された。このため、多くの水鳥がこの湖上で遊泳し、また周辺の山々の松や杉などの樹林が湖面に影を写し、実にすばらしい光景を呈していたという。
背後に小高い山々が連なり市街地とは思えないしっとりとした風情がうかがえる。湖畔にはツツジ、花菖蒲、アジサイなど四季折々の花が咲き、湖面に美しいアクセントを添えている。桜の名所としても知られ、4月上旬になると夜桜見物の市民でにぎわう。また、ボート遊びや釣りも楽しめるとあって、休日には子ども連れで訪れる家族も多い。湖の周辺には七里法華の中心寺院だった最福寺をはじめ東金城跡、その城主酒井定隆の菩提寺となっている本漸寺などがある。 |
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古くは東金の山全体を、鴇ケ根(鴇ケ峯)と呼んでいたので、鴇ヶ根城とも呼ばれていましたが、酒井氏の時代から、東金城と呼ぶようになったようです。東金城は室町時代に千葉氏の支城として作られました。庚正年間(1450年代)に千葉氏一族にあらそいが起こり、房総各地で戦乱が続きました。 将軍足利義政は東常縁(とうのつねのり)に東国平定を命じました。東常縁は東金城を副将浜春利に守らせました。 東金城は本漸寺の裏山の、城山とよばれる標高六十メートルほどの丘の上に築かれました。 城の大手門(表門)は上宿の火正神社の近くだったようです。城のからめて(裏手)は本漸寺で、本堂のおくにある酒井氏の供養塔の先を登っていくと、城山の頂上近くに三本杉と呼ばれる杉の大木がそびえていました。今では二本枯れてしまって一本だけですが、昔は九十九里浜を出漁した漁船が、漁を終えて帰ってくる時、沖から見えるので、方角を見定める目印にしていたそうです。
当時山頂の郭は、物見やぐらや山小屋・兵糧小屋と見張りの兵がいるぐらいで、ふだんは城のふもとやハ鶴湖周辺に侍たちは住んでいたようです。 |
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★江戸時代、大名、旗本により行われたこの祭禮は、明治以降関係地区に継承され今日に至っています。 |
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7月〜8月頃には反対側の養安寺堤防の方には、湖面一杯に蓮が群生しています。 雄蛇ケ池展望台より by JI1BVB
伝説:東金町史にもあるとおり、これを七廻りすれば大蛇が出るという。筆者の童心に植え付けられた話はそれに輪をかけている。「雄蛇が池を七廻り半すると、鬼と白い大蛇が出て来て取組み合いの喧嘩をし、勝った方に食べられる」というものです。 |
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氏は、去る年の火正神社例大祭で神輿渡御の禰宜頭を努めた時の挨拶で、その重責と歴史との狭間で、例大祭の前日の夢の中に、白馬にまたがった「板倉公」を見たと言う話をされたと聞きました。 「板倉公」の存在は、東金の歴史の上でも大変重要なことのようです。 |
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歴史:時は八代将軍吉宗の時代、享保十七年当時敬神の念にあつい仲通りの豪士、元酒井氏の五百石の家臣であった小安弾正忠氏が所用にて江戸へ参った折、浅草で神輿を買い受け、当時田間村の名主役を勤めていた新町の田辺外記(田辺家も元酒井の家臣)に引取りの手筈を頼むとの連絡をし、知らせを受けた当地では早速屈強の若者数十人を選び、江戸へ急行させ、昼夜兼行にて担ぐという荒業をやってのけ、第六天王様に無事奉納したとのことです。この人達か禰宜の祖先であり、それ以来禰宜は代々世襲しています。 また田開神社の祭事は、東金(新宿以南)と隔年に行なわれておりますが、これは、寛文十一年より東金、田間、二又を合せ、三千石の領主が同一人であったため、毎年の祭事では費用の面での問題か出るため隔年としたものと思われます。 神輿が第六天王様に奉納された当時、砂押部落は菱沼村でしたが、その後分村し、田間と合併したために、砂押部落からは今でも禰宜は一名も出ておりません。 昔の神輿の渡御は二日にわたり、即ち八月十三日に飾付けを行ない、十四日神社を出発し仲通りの小安家の庭内に入り、小安家に敬意を示したのち、峯下、田開新田、小井戸部落(元公平村松之郷で、昭和二十八年東金町と合併し、田間神社の祭事に参加するようになった)を通り、神輿はこれより柴田道(十文字川と並ぶ道)を下り、砂押春日神社に休憩し、今の砂押県道を上り峯下の御仮屋に滞在しました。 手作り神輿の製作>> JS1QXM |
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相撲界が実質的な意味で明治維新を迎えたのは高砂の起こした事件と改革によると言われています。また、改革者としての面ばかり語られることが多いのですが、実力も当時の三役級で(番付上は前頭筆頭が最高位)、なかなか強い力士だった様です。 高砂部屋の歴史:2代目は明治11年入幕の関脇高見山。3代目は大正の名大関2代目朝潮太郎。4代目は戦中戦後の横綱前田山が継ぎ、勢力を保った。
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―吉住こまじとその時代― JO1QOJ 飯高 和夫
墓石、礎石部に横書きで長唄。長と唄の中間に門弟中と縦書きされ墓碑に戒名・音聲院妙帰 歿年・文久元年(一八六一)辛酉年十月二十四日そして長唄での名乗りはないが、武州足立郡本木村産国井胤司(夫)に嫁した浅草材木町・片柳重右エ門 長女・俗名せい(妻)の名が刻字されている。 「せい」の子孫、国井信雄氏によれば、平成十八年六月二十一日産経新聞・訃報『吉住小三郎・長唄・吉住流六代目・家元(社団法人)長唄協会副会長・・・・』の切り抜きを提示され、「せい」は「吉住こまじ」と称し、小さい時、我家には長唄用見台や独特な文字の唄本が多くあった。上宿のマスヤさんや新宿の清水屋さんは「こまじ」の最初の門弟であったらしい。・・・・とのことであった。 「こまじ」(?〜一八六一)が生きた時代、長唄唄方・吉住流を名乗った吉住小三郎は初代(一六九九〜一七五三)・二代(一七九九〜一八五四)・三代(一八三二〜一八八九)と続くが、三代目は「こまじ」が他界する一年前の襲名であるため、「こまじ」の師は年齢からして、二代小三郎となる。 二代小三郎の師匠は江戸中橋槇町に住し、初代芳村伊四郎・二代芳村伊十郎・二代坂田仙四郎・そして文政七年(一八二四)二代芳村伊三郎より三代芳村伊三郎(一七五四〜一八三三)を襲名した中村屋平蔵である。 二代吉住小三郎自身は江戸四谷の小三郎と称され、初名を芳村五郎治。前名を坂田五郎治。芳村小八。伊三郎前名三代芳村伊十郎。花垣五郎三郎。初名大薩摩太夫名初代・源氏太夫の名跡を継承した天保・弘化年間(一八三〇〜一八四八)における三名人の一人である。 そして、この二代吉住小三郎と共に、三代芳村伊三郎から直接指導を受けた兄弟弟子には、六歳年上に「遠山の金さん」こと芳村金四郎。一歳年下には『与話情浮名横櫛』のモデルとなった清名幸谷(現・大網白里町清名幸谷)出身の中村大吉こと初名・芳村伊千五郎がいた。 伊千五郎は、市村座・河原崎座で立唄を務めるが他の名跡を継ぐことなく弘化三年(一八四六)十一月四代芳村伊三郎を襲名。しかし、半年後の弘化四年(一八四七)六月十六日四十八歳で他界している。 それでは「こまじ」と同様名人二代吉住小三郎から厳しく修行を強いられた門弟には、どんな人物がいたのであろうか。 一人は石川清之丞(一八三二〜一八八二)である。十七歳の折、その才能と美声を認められ、前年他界した中村大吉こと四代芳村伊三郎宅へ実子芳村遊喜と川合政助了解のもと養子に入り、初名芳村伊千三郎。四代芳村伊十郎。森田座立唄を経て「こまじ」が他界する二年前の安政六年(一八五九)五代芳村伊三郎を襲名した男性である。 しかし、五代伊三郎は明治十五年(一八八二)十一月二十日「こまじ」が門弟を集め指導していた稽古場から数丁程の位置にある秋山嘉吉宅にて急逝する。 宗旨人別帖によれば秋山嘉吉は東金西福寺(現・最福寺)末寺下檀家に記録があり「こまじ」他界の文久元年(一八六一)時、十七歳。父母はいなく祖父との二人住まいであった。 嘉吉は「こまじ」の門弟であったであろうが「こまじ」が他界したため嘉吉をはじめ門弟の多くは指導者を失い動揺する。 そこで、門弟の先行きを心配した夫・国井胤司は「こまじ」の弔問に訪れたであろう家元になったばかりの五代芳村伊三郎に門弟の引き受けを願い了解されたと考えられる。 そして、その時、門弟一同は報恩・感謝の意を込め「こまじ」供養のために墓石を建立し、その礎石部に門弟中と刻字したのではと思う。嘉吉は五代伊三郎より伊三吉を拝命。師が東金へ訪れる折は自宅を旅寓として開放。時代が江戸から明治に移り、嘉吉三十八歳の時、指導を待つ門弟達の眼の前で師が急逝したのであった。 もう一人は一年後の万延元年(一八六〇)三代吉住小三郎(一八三二―一八八九)を襲名した吉住小太郎。大薩摩太夫名二代源氏太夫である。同じ年の生まれである五代芳村伊三郎と三代吉住小三郎は互いに意識しあい、切磋琢磨し、結果、二人は明治初期を代表する名手と成る。 「こまじ」は二人の同門流派の新・家元の台頭に、在りし日の師二代吉住小三郎の姿と重ね合わせ、遠く離れた東金から江戸での活躍ぶりを心から祝ったことであろう。 又、東金の日吉神社連合大祭で曳き回される山車、屋台が姿を現した宝暦年間(一七五一〜一七六四)の九年(一七五九)「せい」の両親が住していた江戸浅草・本伊勢屋吉十郎・版元が『歌選集』に「東金」を載せたように謡に精通していた「こまじ」にとって特別な街であったに違いない。 夢を抱き、多くの門弟を育て上げた「こまじ」が夫胤司と共に懸命に生きた東金は、「こまじ」が他界した二十二年後の明治十六年(一八八三)、東金上宿の西方大門にあった小料理屋島屋付近から出火。火は強風に煽られ猛火となり、一夜のうちに上宿、岩崎、新宿まで焼土と化してしまう。 復興には数十年の時間が必要であったが、再び街角から長唄の音が聞こえ始め、「こまじ」や門弟達が伝えてくれた長唄の心が祭り囃子の中に生かされ、厳粛且つ、華やかで趣のある曲として今日迄永く受け継がれているのである。 |
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1938年出版「東金町史」の中では、唐金(水野)茂右衛門は、商都東金を象徴する江戸時代の豪商として、紹介されています。
「桜をめでる道」として千葉県で指定されているところで、お寺から離れたその一角に10基以上の大きなお墓が綺麗になっていました。ちょうどそこで御住職である坪井日崇上人にお会いしたので、お話を聞いてみると・・・。 江戸時代、紀伊国屋文左衛門と並び称された商人「水野茂右衛門」のお墓で、以前は家族でもこの所在が解らず荒れていたところ、ある機会に知らされて早速お墓を整備され、現在は東京にお住まいの事業も好転されたそうです。
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豪商「唐金茂右衛門」についての一考察 JO1QOJ 飯高和夫
ただ文末に「ある個人の茂右衛門でなく各代の茂右衛門の事跡が合せ絵にされているのでは…又は、東金の名主をしたこともある大木太郎左御門のことでは…真偽のほどは分からないが茂右御門のはなやかなストーリーは水野家以外の大商人の残したエピソードが折り込まれていそうな感じがある。」として閉じている。 豪商としての唐金茂右御門は存在しなかったのであろうか。 水野家を調査するにあたり菩提寺である東金市谷地区にある顕本法華宗鳳凰山本漸寺を尋ね御住職である坪井日崇上人にお会いしご理解を賜った。 <以下 略 > この研究レポートは東金図書館で閲覧できます。飯高氏は浄瑠璃本の「唐金茂右衛門東鬘」(あずまかづら)を国会図書館で入取するなどして、それまでの水野門右衛門研究を大きく発展されました。
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11. 江戸木遣りの「東金」![]() 「江戸木遣」の中の端物[東金] [かわり東金]、大間[東金]、高崎木遣保存会にも「端物」・中間に「東金」があり、各地に伝承されている木遣「東金」の謡い出しは何れも<東金の茂右衛門がー>で始まります。 東金市田間地区在住の8代続くとび職 小川氏により「若鳶会」が結成され、木遣り「東金」の指導並びに後継者育成が図られ、祭礼や建前などのときに儀式の歌として広く歌われています。 木遣歌を歌う場合は、音頭をとる木遣師と、受声をだす木遣師が交互に歌います。また、歌の数は、総数110曲とも120曲ともいわれています。 |
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12. お鷹狩りの謎解きと日経・日善上人 JO1QOJ 飯高 徳川家康公に関する史料を紐解くと『放鷹』のニ文字が散見する。家康公は殊の外鷹狩りを好んだというが、このことからもそれは伺われる。同じく家康公にまつわる史料『駿府記』にも、慶長一八年(一六一三)十二月一三日の条には次の様な一文がある。 蒼鷹数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・・・」
しかし、ここに興味がそそられることが一つある。それは、家康公の鷹狩りを記す多くの書物は『放鷹』と記しているにもかかわらず、東金でのそれを何故『蒼鷹』と記したのかということである。しかも「蒼鷹数多在之故」とはどんな意味なのだろうか。そのまま受け取れば、蒼、つまり青い鷹がたくさん存在するので、といった意味合いとなる。獲物である朱鷺が多く居ると言うのであれば合点が行くが、鷹が多いとはいかなる意味であろう。どうも納得しがたい。ふと『蒼鷹』という語には、何か秘められた意味があるのではないかと思い至った。そこで文献を開き、調べてみることにした。その結果思わぬ事を知ることとなった。 実は『蒼鷹』とは隠語で僧侶の意味があるという。では前述の文中の『蒼鷹』に『僧侶』の語を当てはめて見ると・・・。 「僧侶数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・」ということになる。 僧侶ならば数多存しても可笑しくはない。実際当時の東金周辺には数多くの寺があり、中には家康公を敵視する僧侶もあったりした。そんなことから家康公が、あるいは家康の家臣団が寺社の情勢を探る目的で東金に来訪したと考えれば、隠語を使って記した理由も納得できる。 では東金には、一体どんな宗教事情があったのだろう。隠語を使ってまで探らねばならなかったその事情を今少し見てみよう。 家康公の御代から遡ること約百年。戦国の世の幕開けの頃、上総の国東金や土気付近は、酒井清伝こと酒井定隆が、京都妙満寺心了院日泰との約定により、支配下の地の寺を法華宗に改宗したといういきさつがある。その結果、同じ宗派の寺寺に大きな影響力を持つ法華集団が成立した。この集団が『七里法華』である。 さて慶長の御代、この派の代表格に常楽院日経 (一五六〇〜一六二〇)がいた。日経は中野本城寺や土気善正寺(後、善勝寺と改める)の住職を歴任し、大網白里町に方墳寺を建立し、京都本山妙満寺の二七世であった。 日経は豊臣秀頼に頼まれ、家康を調伏するとし本尊を駿河に送り(『近世日什門流概説ー信行論と殉教史を中心にー』)家康を日本無双の大強盗、国主大理不尽の闇君と罵る(『日什と弟子達ー顕本法華殉教史』)そのため同書によれば家康公が信仰する浄土宗と法論を戦わせることとなった。 宗論の場となった江戸新城に臨席したのは徳川家康公を始めとし秀忠、忠輝、浅野長政、上杉景勝、蒲生秀行等の老中、また浄土宗の江戸増上寺を長とした新知恩寺幡随意、鎌倉光明寺及悒、鵠巣勝願寺不残の賜紫長老等であった。日経の宗論相手として出席したのは浄土宗の英長寺廓山で、廓山は小田原大蓮寺了的を伴って臨んだ。しかし前日日経は暴漢に襲われるという事件(慶長法難)に会い、重傷を押しての参加であった。そのため宗論の場では一言も発言できず、家康からは厳しい怒りを受けることとなり、京へ護送された。やがて日経は慶長一四年(一六〇九)、京都六条河原で弟子五人と共に耳鼻削ぎの刑に処せられ妙満寺から追放された。 日経の後、本山二八世に就任したのが東金西福寺(後、最福寺と改められる)七世の蓮成院日善 (?〜一六一七)であった。 蓮成院日善は慶長一九年(一六一四)一月九日、突如東金に来訪した家康公に拝謁を許された。現在東金八鶴湖畔にある古刹最福寺の境内には、家康公と日善上人が共に座して八鶴湖を眺望する構図のブロンズ像が建立されているが、これは現最福寺住職がこの歴史的事実を記念し、千葉大教育学部教授の上野氏に依頼して制作したものである。 同一九年九月二十日、日善上人は家康公より駿府城に召された。文献によるとそれは雨が強く降り続く中での登城であった。日善上人が家康公に拝謁した日は、大阪冬の陣の前夜で、想像するに、京都・大坂方面や上総七里法華の関係寺院、及びその檀家等の動向について問うたのではあるまいか。これに対し上人がどう答えたのであろうか。 翌日は小春日和。駿府城を辞して日善が何処に向かったかは記されていない。ことによると京都妙満寺ではなかったろうか。 *******文芸誌 ホワイトレター 六号 より |
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東金市は千葉県北東部にある九十九里平野の中央部に位置し、同市・谷地区の古刹、顕本法華宗(江戸時代・京都妙満寺派と称す)鳳凰山本漸寺境内には、「徳川家康公お手植えの蜜柑」と伝承される老樹が存在し、明治30年代後半であろうか、ガラス板写真に撮られたかっての姿は、四方に枝を伸ばした高さ十尺以上ある老樹であったが、現在では、その孫と称されている同寺内の若樹が季節になると多くの実を付け散策に訪れる人々の目を楽しませている。 写真の蜜柑はQOJの調査結果では、本漸寺に現在残っている「蜜柑」は、江戸時代のものと種が違い、その当時のものと同じ種の蜜柑を発見したのが去年の事で、あいにく時期違いで、足掛け2年の取材に同行しました。 |
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14.国木田独歩作品 『驟雨』 ゆうだち の舞台と東金について一考察
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15.国木田独歩作品『驟雨』の舞台と東金についての一考察(二) JO1QOJ 飯高
※ 日本基督教団・・・日本最大のプロテスタント合同教会。 『日本大百科全書』(小学館) |
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16.消防団 出初式 東金市消防団では、毎年1月の始まりの行事として、 出初式が行われています。例年、東金中学校に於いて表彰の伝達や観閲、器具点検、ポンプ操法、中隊訓練等の式典が開催されますが、恒例行事として他の消防団にはない、消防団のポンプ車輌が30台集結しての一斉放水試験では、八鶴湖畔にたくさんの見物人のいるなかで、湖上に大きな虹を描く様は、一年の初めを彩るにふさわしい行事となっています。 | |
17.東金市台方 羽黒山妙福寺で発見された宮大工 大木茂八の棟札についての一考察 @ 飯高 和夫 JO1QOJ
この地区の火災に関しては『千葉県の地名』(平凡社・発行)によれば、文化三年(1806) 「日蓮宗・妙福寺から出火し、二十七軒が類焼している」(有原家文書)。との記述が残るが、前述の火災の件であるのかは不明である。有原家とは妙福寺より西方山際に三丁程離れた位置にあり、多くの貴重な文書は現在千葉県文書館に寄託されている地区を代表する旧家である。又、同台方地区字弥勒の旧家である前嶋家の同館発行の「前嶋家文書目録」にも明治十六年(1883)東金を焼土と化した通称「明治の大火」の詳細な日誌があるが、この大火災の火元となった大門(だいもん)地区小料理屋しまや付近とは、妙福寺山門より僅か0・五丁程風下の場所。燃え上がる火の手から逃れられたのは妙福寺本堂裏手の上総丘陵崖側を烈風が西から東方へ沿うように吹き抜けたためと言われている。 妙福寺の日堅の法弟・堅祐の史料はないため不明であるが、 例えばその中で、本堂向拝の虹梁中央蟇股部分に彫られている作品「波に千鳥」であるが、潮騒を聞く遠浅の九十九里浜の直ぐ砕け散る白波とは異なり、大きくうねり迫る波間の中を片翼を細め、勢い良く飛び交う千鳥たちが、いきなり静寂を破るさえずりの声高らかに極楽浄土へと飛び出すごとく感じる作品を是非制作したい旨の話も当然あったであろう。 そこで、この度の屋根修復工事で妙福寺の形がどの様に変貌するのか諸々情報を収拾すると、本堂の屋根は現在の銅板葺きの形でなく、以前大正時代に写真撮影されていた藁葺き屋根の形に戻し、文化財の意味もあるので従来使用されていた建築古材もそのまま生かす方法で行う。との事であった。 妙福寺本堂建立に際し、住職並びに多くの壇信徒の未来永劫を祈り、本堂中央上部に固定された棟札は本年まで約百九十年余を経た証しとして表面は香煙により黒茶色に変色していたが、下部に探し求めていた棟梁の名 東金の大工棟梁 大木茂八雅廣。脇棟梁として押田傳次廣胤の名前を確認する事が出来た。当然であるが向拝の波と千鳥を彫り上げた人物は棟梁である大木茂八本人の作品であったと言えよう。 そこで今回確認した大木茂八の人物像に関して、房州安房(あわ)鴨川打墨出身 初代武志伊八郎信由(以後、波の伊八)と大木茂八の作品が共に千葉県いすみ市和泉飯繩寺境内にあることから二人に触れながら話を進める事にする。 波の伊八と言えば波と龍の名品が多いが、いすみ市和泉の飯繩寺(いずなでら)本堂内正面にある「大天狗と牛若丸」「波と飛龍」の作品は特に有名である。その作品とは身を清め、砥ぎ澄まされた愛刀鑿先に全身全霊を捧げ、祈りを込め彫り進む波の伊八に対して神仏さえも味方したといわれた作品である。 時を忘れ過ごした波の伊八の彫り上げた本堂を背にして一歩階段を降りると 波の伊八は寛政八年(1796)気力、体力共に充実した四十五歳の年、飯繩寺本堂の彫刻を完成させるが、鐘楼堂を建立した大木茂八は翌年の寛政九年(1797)に産声を上げる。波の伊八と大木茂八とは年の差45歳。祖父と孫ほどの年齢差である。歳月が過ぎ、文政七年(1834)大木茂八が二十七歳の時、波の伊八が最晩年の仕事となる夷隅熊野神社の神輿制作を手掛けた後、七十三歳で他界する。 棟梁が不在のため大木家一門から四代目の名跡を継承する事になった若者にとって不幸な出来事とは一門を牽引していた二代目大木茂八を十九歳。三代目大木茂八を二十二歳で失った事である。この若者が十五歳で茂八の下に入門していたとしても二代目大木茂八とは四年。三代目大木茂八も七年という短期間の出会いだけである。徒弟として奉公を始めた若者にとって数年間は兄弟弟子たちの仕事振りを垣間見たり、大小建築材料の運搬等の補助作業に時間を費やし、厳しい徒弟制度の中では棟梁からの直接指導はなかったのではと思える。 この若者に関しては、大木家の菩提寺である東金市最福寺住職故日俊上人より、四代目大木茂八は俗にウシ太郎と呼ばれていたようです。との助言を頂いている。牛のように逞しく周りから好かれた才智ある若者であったためなのか、或いは学者などに付ける尊称である大人「たいじん」を「うし」と称す事から、入門したばかりであるが呑み込みが早く宮大工としての資質を満たす若者に棟梁茂八が隠語のように名を呼び現場でもあれこれと声を掛け、諸々の手伝いをさせていたのかもしれない。 しかし、若者が憧れた宮大工の棟梁二人が相次いで死去する。当然弟子や一門の中から次代の棟梁を継ぐ人物を。と願うが残念ながら皆が推挙する人材が見当たらず棟梁大木茂八不在のまま大木家はその生業を続け、仕事の話がある時は茂八と関係のある一門の大工の手を借り生計を立てていたと思える。 当然な事であろうが、この若者にとって茂八の二文字はあまりにも大きく技術力はもちろん精神的な重圧に将来への夢、希望や自信を失いかけたであろうが、その時、若者を盛り上げ助言、手助けをしたのが先代茂八の下で共に汗を流した常に身近にいた兄弟弟子達であり、仕手として度々訪れていた夷隅の大工達であった。 夷隅で歓迎を受けた若者は誘われるまま夷隅地区和泉の飯繩寺を案内され、本堂内欄間に彫られた眼光鋭く悠然と構え控える大天狗と牛若丸の作品を見て驚愕する。 若者は以後夷隅地方に訪れる際は波の伊八の欄間彫刻を食い入るように仰ぎ見、模倣ではなく自分の作品にどの様に生かすべきかあれこれと試行錯誤を重ね、その結果、今日観られる様な波の伊八とは異なる宮大工大木茂八としての独自の作品を作り上げたのではと想像する。その表れは鐘楼堂に彫られた龍、虎、獅子等の姿である。波の伊八の作品を動とすると茂八のそれは,御本尊に救いを求め信仰する多くの老若男女を優しく向かい入れる心の内面を表現した静の思想観に満ちた作品に思えてならないからである。そして飯繩寺境内全体を欄間に見立て手前山門から遠望すると本堂が大天狗。鐘楼堂を牛若丸としたならば、波の伊八を師と仰ぎその前に畏まり修業中の弟子即ち茂八の姿を映したように感じてならない。
宮大工三代目棟梁大木茂八他界から時が過ぎたが不在であった大木茂八の名跡を継承する事となった若者に対して大木家では若者の幼名を改めさせ四代目棟梁に相応しい格式のある名を授けたのではと思える。 妙福寺の棟札に墨書を残した棟梁大木茂八雅廣とは八年の歳月を経てりっぱに成長した若者すなわち四代目大木茂八であり、そして大木一門から棟梁としての技量や人格をも高める様に託され、絶えずその若者を補佐し続けた脇棟梁大工 押田傳次に対しても同様に廣胤という名を伝授したのではと思える. 押田姓は千葉県の北総地区や夷隅地区に多いが東金周辺では意外に少ない苗字である。実は先日妙福寺の梵鐘を調査した折、梵鐘を寄進された多くの檀家名が下段にぐるりと列記されていたが最上部篤志の覧左側に押田(女性名・ひらがな)の名前を発見した。 大木茂八は初代より八代継承した千葉県東金市東金字岩崎に居を構えていた宮大工大木家の棟梁名である、宮大工という特殊な師弟関係等については八代目茂八の孫弟子にあたる方に取材を行いまとめたものであり、○代目茂八については同姓同名であるが故、解りやすく小生が付けたものである。特に四代目。夭折した五代目。再度復帰した四代目改め六代目。七代目と小倉惣次郎に関しては小生のレポ一ト「小倉惣次郎と東金の彫刻師についての一考察」に記述してあるので今回は省略することにした。 | |
18.東金市田中 ほうじゅざんほうこうじ 宝珠山法光寺と閻魔王座像 JP1XWZ 河内 勝美
山辺赤人座像は、像高18.1cmで檜の一本木丸彫で彩色されています。像は全体にゆったりとしたふくらみをみせています。笑みを含み、今にも一首うたいだしそうな風貌です。作者は不明であるが、おそらくこの地に赤人伝説が起こった文化年間(1804年〜1817年)頃の作とされています。この像は秘蔵とされ普段は公開されていません。昭和56年(1981年)5月15日に東金市の有形文化財に指定されました。 | |