{八鶴湖・小西湖}

命名のその時

JO1QOJ 飯高和夫

天保十二年(一八四一)三月漢詩人遠山雲如(三一歳)が上総東金に来訪。
徳川三代に関係した東金御殿があった事から御殿前池と称されていた上池、下池で連なる谷池を雲如は、自作漢詩に八鶴湖・小西湖と命名。

そしてニケ月後の五月妻紅蘭と共に来訪した師梁川星厳も、その命名を妙なりと推奨し自作漢詩に引用。
以降星厳の多くの門人や詩惰性に感じた文人墨客により、このが広められたと言い伝えられている。 
麗々しい命名をされた雲如の卓越した文才に心より敬意を表したい。
 

さて、本年八鶴湖畔にある名刹・日連宗安国山最福寺(元西福寺)三七世山岡日俊上人立会いの下、山門に掲げられている山号大扁額を調査する機会を得た。
繭糸のように蜘蛛の糸に覆われた裏面を布で拭き落とすと雲如が来訪する五年前の天保七年(一八三六)三月吉日、当山二六世権少僧都口堅(花押)。そして納主・取次二名の名前が墨書きされていた。
日堅は「西福寺歴代年表」によれば京都妙高山妙満寺一八七世を勤め、後年僧都になられた上人。
入寂は七五歳であるのでこれは五一歳時のこと、ということになる。

 表面を細見すると高雅な楷書で揮毫されている出号『安国寺』には僅かではあるが胡粉と黒漆の痕跡が残っており、地板面は黒漆で塗られていた事が判る。
刻字されていた書家の名前は、「平義是」(是と続めるが不確)。
号は独特な篆書のため遠眼に八鶴と見える二文字だがそれは「九鶴」と判明した。
裏面の墨書から想像するに日連宗宗祖日連大聖人五五五遠忌となる天保七年のこの時、山門では荘厳華麗なる雅楽の調べと読経の中、本山京都妙高山妙満寺を始め妙満寺主関係寺院である上総九ケ寺各住職及び当山夫寺住職一同。
当山住職日堅上人。
大扁額を納めた江戸銀座の秋田太郎右衛門。
福島城主板倉公が知行地東金へお成りの際お目見えの儀に使用した中田家の縁者であろう取次役の中田作右衛門。
印半天を羽織った宮大工大木茂八。
今日迄狂いや割れを生じない名木欅一枚板を手配したであろう日本一の桐材商人当山眼下上宿の唐金茂右衛門等多くの関係者が儀式に臨席。
新大扁額を仰ぎ見、合掌。
未来永劫の安泰を祈念する。

そして、その中に黙して涙する一人の男性の存在を認識しなければならない。
『中田家系図』によれば天保五年三月十一日四七歳で死去した妻知勢 (戒名青蓮院妙浄)の夫中田与三左工門敏行、後改抽知号二閑である。
知勢は加舎白雄の高弟として雨塘(二世)を名乗る俳人、蘇我野の海船問屋、小河原清左工門長栄を父に、九十九里粟生の大網元飯高惣兵衛、俳号覇陵の娘たみを母に持つ女性であった。
抽知は当山扁額慶事には当初より中田作右衛門に取次を任せ喪に服す日々を過ごす。


華やかな行事も終了し、天空の月も下弦となった日、推知は人脈を使い各方面の縁者・賢者を招聘し、三回忌法要を取り行う。
長成村一松蟹道の片岡篤庵もその中の一人であったであろう。
天保十一年(一八四○)霊如は篤庵の自宅に招かれ日々談えんするが、そんな折篤庵より詩境の地車金谷池の存在を知らされたと想像する。

年が明け春気玲ろうの日、雲如は篤庵の添書を携え崖の街東金の中田家を訪れる。
抽知は年若きといえども仙風道骨の趣を有する生客雲如に逗留をすすめ屋敷西方の楼に案内する。
暖かさか花の香りを含み瑠璃の水面を通り過ぎる時、金麟のごとく輝く西福寺山門大扁額の高雅な書体に讃を表わし、池の名を号から八鶴と解し、谷を谷津と改名。又東金街の西、鐘声の寺西福寺の西『そして蘇しょくに想いを馳せ小西湖と心に留める。

あるたおやかな朝、雲如は翠鳥の声にか呼び起こされ、急ぎ秋錦・梅庵・耕雲を招き、筆架に手を掛け一気に三首を書き上げる。

将にその時、世に知られる八鶴湖・小西湖の名の誕生であった。